逸話「三本の矢」は毛利元就が言った話ではない
毛利元就の有名な逸話に「三本の矢」があります。 「一本の矢は簡単に折れるが三本束ねれば折れない」って感じのやつです。
実はこの話、フィクションの疑いが強いのです。 元就の今わの際に3人の子に向けた話とされていますが、そもそも元就より長男の方が先に逝去していますからね。
三本の矢は創作の色合いが濃い
毛利元就は戦国時代の代表的な大名です。 元就が若い頃はほんの一勢力に過ぎませんでしたが、戦乱の世を巧みに渡って勢力を広げ、ついには有力大名であった大内・尼子を打ち破って中国地方に一大勢力を築いた人物です。 時代を考えるとかなりの長寿で、75歳まで生きています。
元就には優秀な三人息子の隆元・元春・隆景がおり、隆元の子・輝元は豊臣五大老の一人になって関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めました。 関ケ原の戦いで徳川に敗れた後は減封され外様大名となりましたが、子孫は長州藩代々の藩主を務め、明治維新後も第15国立銀行頭取や貴族院議員などを輩出した名家で、今もその血筋は続いています。
さて、その毛利元就の有名な逸話に「三本の矢の教え」があります。 かつては教科書にも掲載されていた話で、あらすじは以下の通りです。
三本の矢
毛利元就は今わの際に三人の子どもたちを枕元に呼び寄せ、それぞれに一本の矢を渡して「折ってみよ」と言いました。
息子たちは一本の矢をポキリと折ると、今度は三本に束ねた矢を渡して「折ってみよ」と言いました。 しかし息子たちは三本の矢を折ることができませんでした。
元就は「一本の矢なら簡単に折れるが、三本束ねると簡単には折れない。三人で力を合わせて事に当たるように。」と伝え、息子たちはこの教えを守ることを誓いました。
しかしこの話、毛利元就の逸話と考えるとやや腑に落ちない所があります。 毛利元就はとても長生きで、没したのは長男・隆元が没した8年後の1571年です。 つまり元就の今わの際に隆元は来れません。
隆元の代わりに別の1人を呼んだと考えることもできます。 元就の正室の子は前述の3人ですが、側室の子を合わせると男10人女2人の12人の子どもたちがいました。 しかし元就は側室の子たちを軽んじており、全員呼ぶならともかく1人だけ呼ぶのはやや不自然です。
そんな訳で三本の矢はフィクションであるという見方が強いです。 しかし全く根も葉もない話なのかと言えばそうとも言い切れません。
元就が60歳頃に隆元・元春・隆景の三人に向けて送った文書に「三子教訓状」というものがあります。 これは兄弟で協力して毛利家を盛り立てていくように14条の教訓を書いたもので、その内容は三本の矢と重なる所があります。 この実話が何かしら変節して伝わったのが逸話「三本の矢」となったのではないかと考えられています。
実は三本の矢と似たような話は世界中にあります。 中国の阿豺という族長が死の間際に20人の息子たちに言ったとか、チンギスカンが兄弟で争った時に母から五本の矢の教えを受けたとか、イソップ物語に「三本の棒」という話があったりとか、戦国時代よりも前から様々な場所で言われていた話なのです。
イソップ物語は1593年に日本で「天草本 伊曽保物語」として刊行されています。 もしかしたら「三本の棒」が広がる際に3人の優秀な息子を持っていた毛利元就と重なって、話が混じって広がったのかもしれませんね。