大阪城天守は三代目で、現代の天守は昭和に作られたもの

大阪のランドマークは色々ありますが、中でも象徴的なのが大阪城です。 豊臣秀吉が建てた城として有名で、日本三大名城のひとつして数えられることも多いです。

そんな大阪城ですが、現在の天守は元からあったものではありません。 豊臣秀吉が建てたものは徳川家康が埋めてしまい、徳川秀忠が建てたものは落雷で焼失し、今の天守は昭和の復興事業で建てた三代目のものなのです。

豊臣秀吉が建てた「初代大阪城」

大阪城を最初に建てたのは日本で初めて天下統一を果たした人物・豊臣秀吉です。

天下人目前だった織田信長は1582年に本能寺の変によって死に、家臣たちの跡目争いが始まりました。 有力家臣だった豊臣秀吉は対抗馬の柴田勝家を倒して織田家を掌握し、やがて名実ともに信長の後継者となります。

秀吉が大阪城の築城を始めたのはその頃の1583年です。 まだ織田信雄・徳川家康などの抵抗勢力や平定されていない地域はありましたが趨勢は決しており、大阪城は天下を治めるための拠点として作られました。 秀吉が天下統一を果たしたのは1590年、大阪城が完成したのは1598年になります。

大阪城は秀吉の力を世に知らしめるため豪華絢爛に作られたそうで、大友宗麟の大坂城内見聞録において「三国無双の城」と絶賛されています。

MEMO

三国無双の三国とは、日本・中国・インドのことです。

要は「他に並ぶものがない世界一の城」と評したということですね。

しかしそんな秀吉が建てた豪華絢爛な大阪城は、徳川家康によって潰されてしまいます。

徳川秀忠が建てた「二代目大阪城」

天下人となった豊臣秀吉は、日本の次は大陸を手中に納めるべく、朝鮮半島へと出兵しました。 6年に及ぶ戦争は端的に言うと大失敗に終わり、秀吉が病死したのを機に撤兵されました。

秀吉の跡目争いで豊臣家は割れてしまい、そして豊臣家を強く支持する西国大名は朝鮮出兵の影響で酷く消耗していました。 一方で東国大名は日本に残っていたため損耗を免れており、その中でも特に強い勢力を誇っていたのが豊臣五大老の筆頭格だった徳川家康です。

豊臣家の家臣の対立は深まり、やがて徳川家康率いる東軍と毛利輝元率いる西軍に別れて関ヶ原で決戦することになります。 関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康が次の天下人となりました。

MEMO

西軍は石田三成のイメージが強いですが、これは毛利勢に積極性がなかったのが一因です。 あるいは西軍の劣勢と敗北を予見していたのかもしれません。

戦いの後、豊臣家の領地は1/4程度に減らされてしまいます。 豊臣家は名目上は徳川家の主君筋ではありましたが、権勢の差は時が経つごとに広まる一方でした。 やがて豊臣家が目障りになった家康が難癖を吹っ掛けて対立を決定的なものとし、夏冬二度の「大阪の陣」の決戦にて豊臣家は滅亡します。

豊臣家の本拠地だった大阪城は戦争の影響で廃墟となったこともあり、徳川に埋め立てられてしまいました。 そして2代将軍徳川秀忠によって再建が始められたのが「二代目大阪城」です。 3代将軍家光の時代に完成してから大阪城は徳川家の歴代将軍が城主となりました。

なお大阪城の象徴である天守は、落雷が火薬に引火して大爆発するなど度々事故を起こし、完成から39年後に落雷でとどめを刺されて焼失します。 以降266年もの間、大阪城は天守がない城になってしまいました。

MEMO

城とは軍事・政治拠点を指す言葉で、必ずしも天守を持っている訳ではありません。(※城=天守を指すことも多くてややこしいですが)

徳川将軍の本拠地は江戸城だったこと、戦争のない時代だったことを考えると、大阪城天守を再建する必要性はなかったのでしょう。

それから長らく徳川の天下が続きましたが、1850年代頃の欧米列強の来日と外圧により、各地で討幕の気運が高まります。 京都を中心に情勢が動いていたため、迅速に対応できるよう十四代将軍・徳川家茂は大阪城へと入城します。 徳川家が上洛したのは3代将軍家光以来の実に230年ぶりのことでした。

ところが家茂は大阪城にて21歳の若さで病死、その後を継いだのが徳川家最後の将軍となる第十五代将軍・徳川慶喜です。 しかし趨勢は既に決しており、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川方は江戸へと敗走、大阪城を新政府軍(後の明治政府)へと引き渡す交渉がされました。

しかし城内には徹底抗戦を決めた幕府軍残党が残っており、大量の新政府軍を見て抗戦は無理と判断、大阪城に火を放ちます。 そうして大阪城は丸ごと焼失してしまったのでした。

昭和に再建された「三代目大阪城」

大阪城跡は新政府軍陸軍の管轄となり、軍事拠点として整備されていきます。 それが昭和の初頭に、昭和天皇の即位記念事業として大阪城天守が再建されることになりました。

天守は徳川が作った天守台の上に、大坂夏の陣図屏風の大阪城をモデルにして作られることとなりました。 この頃は地面に秀吉の大阪城が埋まっていることは分かっておらず、天守台も秀吉のものと考えられていたのです。

その結果三代目大阪城は、豊臣が建てたものとも徳川が建てたものとも微妙に違う、いわばハイブリッド天守となってしまうのでした。 ちなみに材質は鉄筋コンクリートであり、情緒はありませんが当時の城よりも遥かに丈夫です。

大阪城は陸軍の軍事拠点だったこともあり第二次世界大戦時の空襲で壊滅的な被害を受けましたが、天守に限っては若干損傷しただけで戦火を免れます。 そんな訳で現在残っている大阪城天守は三代目という訳です。

大阪城にはエレベーターまで備え付けられており、「景観を損なうから外せ派」と「便利だから良いだろ派」の議論を巻き起こしたりしています。 個人的な希望としてはどうせ再建したものなんだし最新テクノロジーで先進的な天守にして欲しいと思っていますが、皆さんはどうでしょうか。

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