高校野球で甲子園の土を持ち帰るようになった理由
高校球児が目指す憧れの舞台「甲子園」。 敗者にはドラマを、勝者には栄光を与えてくれます。
そんな甲子園では高校球児が土を持ち帰る文化が定着しています。 なぜ土を持って帰るようになったのかと言えば、首里高校のエピソードがひとつの契機になっています。
甲子園の土を持ち帰るようになった理由
甲子園の土なんて持って帰ってどうするんだ、なぜ持って帰るんだと思う人もいるかもしれません。 こんな文化があるのは甲子園ぐらいですからね。
甲子園の土を持って帰った話で一番古いのは、1937年の熊本代表・川上選手と言われています。 しかし川上選手は「最初に持ち帰ったのは自分ではない」と話しているので、始まりはもっと遡りそうです。
そのように細々と甲子園の土を持って帰る文化はありましたが、試合終了後に選手たちが一様に砂を集めて持ち帰っていた訳ではありません。 球児たちが甲子園の土を持ち帰るようになったのは、沖縄の首里高校のエピソードが契機です。
アメリカ統治時代の首里高校の甲子園
第二次世界大戦終戦後、サンフランシスコ講和条約により沖縄はアメリカの統治下に置かれました。 この時は日本と沖縄を移動する際にはパスポート(沖縄県民の場合は渡航証明書)が必要でした。
そんな沖縄県は1958年に初めて甲子園に参加することとなり、沖縄代表として首里高校が出場しました。
奮戦むなしく1回戦で強豪・敦賀に敗れてしまいますが、しかし首里高校のメンバーたちは日本に来て甲子園で戦った証として甲子園の土をビニールに入れて持ち帰りました。
そして沖縄へと戻っていった面々でしたが、入国審査にて問題が起こります。 アメリカの法律によって甲子園の土は外国の土とみなされ、植物検疫法によって捨てられてしまったのです。 これは沖縄が日本ではないことを強く認識させられる出来事でした。
首里高校のエピソードが日本中に広まる
これが新聞で報じられると日本中で大きな反響を呼び、首里高校には甲子園の小石や、甲子園の土から作った焼物が届けられました。 首里高校の甲子園出場を記念して建てられた「友愛の碑」には、その時に贈られた小石が埋め込まれています。
この首里高校の出来事こそが甲子園の土を持ち帰る文化を広めたと言えるでしょう。 そんな沖縄県は1999年に甲子園初優勝を果たし、今では高校野球の強豪として名を連ねています。
ちなみに沖縄県は1972年に日本へと返還されています。 それを実現した沖縄復帰運動の盛り上がりには、首里高校の影響もあったのかもしれません。
高校球児が持ち帰った甲子園の土はどうなる?
首里高校のエピソードがすっかり忘れられた今日においても、甲子園の土を持って帰る文化は残りました。 そうなると持って帰った土をどうしているのか気になりますよね。
昔は首里高校に倣って焼き物の材料に使われることもあったようですが、今はそんな話も聞かなくなりました。
持ち帰った甲子園の土をどうするかは学校や選手によりけりです。 主にグラウンドの自分の守備位置に撒いたり、瓶に入れて記念品にしたり、お世話になった友人知人に配られてたりしているようです。
フリマサイトやオークションにて甲子園の土が売られていることもあります。 一体誰が何の用途で買うのか、果たして売れるのか少し気になります。
甲子園は色々な地域から土を取り寄せている
甲子園は兵庫県西宮市にある球場で、正式には「阪神甲子園球場」と言います。 大阪にあると勘違いしている人が多いですが、甲子園は実は兵庫県の建造物です。 県境から5kmぐらいなので、ほとんど大阪ではありますけどね。
そんな甲子園の土は黒土と砂をブレンドして作られています。 春は雨が多いから砂を多くする、夏はボールを見やすくするため黒土を多くするなど、配合する割合は天候や季節によって変わります。
黒土の産地は決まっておらず、日本の様々な場所から取り寄せられています。 岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山などなどです。
そして白土は中国福建省から取り寄せられています。 昔は甲子園浜及の砂を使っていたようですが足りなくなったのでしょうか。 今は日本の砂ですらないんですね。
球児の血と汗が染みこんだ甲子園の土だから価値が出るので、産地がどこかなんて野暮な突っ込みだとは思います。 しかし甲子園の土を持って帰ってみたら、黒土は地元産だったなんてこともあるかもしれません。