お台場の名前の由来は大砲を置いた「砲台場」
お台場は東京の著名な観光スポットのひとつで、フジテレビ、アクアシティ、ガンダム、海浜公園など様々な名所があります。
オシャレなイメージのあるお台場ですが、実はペリーの黒船を撃退するために砲台を置いた「砲台場」が名前の由来です。
アメリカと戦うために作られた砲台場
1853年7月、アメリカのペリー提督は4隻の艦隊を率いて浦賀沖へとやってきました。 この時のペリーの目的は大統領の書いた「開国を求める親書」を日本に渡すことでした。
この頃の日本は外国と交流しない鎖国状態であり、長崎の出島でのみオランダや中国と交易を行っていました。 幕府は長崎へ回るよう言いましたが、ペリーは「親書を受け取らないなら武力行使してでも渡す」と言って譲りませんでした。
幕府が折れて親書を受け取ると「1年後に返事を聞きにくる」とペリーは一旦帰っていきました。 とりあえずの戦争は避けられましたが、幕府の内心は穏やかではありませんでした。 あんな艦隊に砲撃されたら止める手段がなく、江戸はあっと言う間に火の海です。
そこで幕府は品川沖に11の人工島を作って、そこに砲台を備えて迎え撃つ計画を立てます。 これは戦うためというよりは、日本にも戦う力があることを知らしめるためのものでした。
しかしその半年後の1854年2月、幕府が6つ目の人口島を作っている最中に再びペリーがやってきてしまいました。 これは12代将軍・家慶の死を知ったペリーがその隙を突こうとしたためと言われています。
予定より半年も早い来訪に幕府は大慌てしました。 砲台場はまだ半分もできてないのに、7隻もの艦隊が来て、更に2隻が合流して9隻になりました。
政治的空白のせいなのか戦力差を悟ったのか、幕府はアメリカの要求に屈します。 不平等条約で有名な日米和親条約(別名・神奈川条約)が結ばれ、200年続いた日本の鎖国体制は終わりを告げました。
砲台場のその後
ペリー艦隊との戦いにはならず砲台場は当面の役目を終えました。 11の砲台場を作る計画は途中で中止となりましたが、完成した8つの砲台場は川越藩、会津藩、忍藩の三藩で担当して江戸湾の防衛に使うことになりました。
時代が変わって明治になると、砲台場は陸軍省の所轄に変わります。 1884年には東京の防衛を新たに東京湾要塞で担うこととなり、砲台場の役目は終わりました。
8つあった砲台場は埋め立てられたり撤去されてたりして数を減らし、最終的に東京に払い下げられた第三砲台場と第六砲台場の2つを残して全て撤去されました。
現在は第三砲台場は台場公園となり、第六砲台場は立ち入り禁止です。 しかし砲台場という名前は残り、それが訛って「お台場」となったのです。
そんな訳で観光スポットとして大人気のお台場は、元々はペリーと戦うための砲台場だったという話でした。