超ド級の「ド」は戦艦ドレッドノートのド
もの凄いものを表現するのに「超ド級」という言葉があります。 「超級」の意味は字面から何となく分かりますが、間に挟まっているカタカナの「ド」が謎ですよね。
実はこの「ド」、イギリスが1906年に進水した戦艦ドレッドノートを指しています。 つまり超ド級は、元々は戦艦ドレッドノートを超えるという意味だったのです。
戦艦ドレッドノートと超ド級
戦艦とは
戦艦とは文字通り戦う艦(船)のことで、船に積んだ大きな大砲で攻撃する兵器です。 戦艦は第二次大戦の中頃までは海軍の主力兵器であり、日本では戦艦大和などが有名ですね。 戦艦とは何かをお話する前に、戦艦の前身である戦列艦についてお話したいと思います。
時は17世紀、船に大砲を積んで運用する戦列艦が軍艦として活躍していました。 船の側面に発射口を開けてそこから大砲を発射して戦う船であり、軍艦ともなれば数十門、あるいは百門を超える大砲が積まれていました。 また戦列艦は発射口のある船体側面からしか砲撃できないという特徴があります。
当初は大砲の威力がそれほど高くなかったので、大量の大砲で砲撃しても敵船を撃沈するのは中々難しいことでした。 だから大きな大砲を沢山積んだのが強い戦列艦だったのですが、大砲の発達により徐々に事情が変わってきます。 少ない大砲でも敵艦を撃沈できるようになり、そんな中で船体側面に発射口を開けて沢山の大砲を積み込むのは危険になっていったのです。
そこで生まれたのが戦艦であり、鋼鉄の装甲で防御力を高めて甲板の砲塔から砲撃するようになりました。 そんな戦艦は如何に威力が大きく射程が長い大砲を積むかが重要でした。
もし戦艦同士の戦いで一方だけの射程が長いと、その距離を保てば一方的に撃ちたい放題になりますからね。 また一方的な射撃を実現するための速度も重視されました。
全ての戦艦を過去にした戦艦ドレッドノート
戦艦が登場してから10年ほどが経った頃、従来の戦艦を全て過去のものにした優秀な戦艦が誕生します。 それこそがイギリスが作った戦艦ドレッドノートです。
それまでは大口径の主砲と小さめの副砲を沢山積むのが主流でしたが、口径が小さいと遠くまで届かず命中も良くありません。 なので副砲全て取っ払って代わりに主砲だけを沢山積み、火力と命中率を向上させました。 また蒸気タービンの採用により、旧来の戦艦の1割増しの速度を実現しています。
色々革新的な試みがされたドレッドノートは従来の全ての戦艦を凌駕する性能を誇りました。 従来の戦艦がドレッドノートと戦えば、一方的に沈められて負けかねないほどです。
そんな革新的な戦艦であるドレッドノートの設計思想に各国も追従し、類似した戦艦が沢山作られることとなります。 それらをドレッドノート級を略して「ド級戦艦」と呼ぶようになりました。
以降も戦艦は各国が競うように開発され、数年後にはドレッドノートを上回る通称「超ド級」の戦艦も建造されていきました。 二次大戦では超ド級が当たり前で、さらにそれを上回る超々ド級戦艦も参戦しています。ちなみに戦艦大和は超々々ド級戦艦だそうです
航空戦力が発達していなかった頃の戦艦は海の決戦兵器であり、より強い戦艦を持つことこそがより強い海軍を持つことに直結していました。 この時代の海軍力の評価は、どんな戦艦をどれだけ保有しているかだったのです。
そんな「ド級」は、転じて革新的・圧倒的・強力・巨大なものの意として使われるようになり、現在に至ります。 本来の意味の「超ド級」はずっと昔に時代遅れになっていますが、まあそんな感じなのです。
戦艦の終わり
現在、戦艦を運用しているほぼ国家はありません。 これは軍艦が戦艦から空母へとシフトしていったからです。
第二次大戦中、日本が真珠湾攻撃を仕掛けた時の話です。 日本は戦艦で撃ち合う前に飛行機で爆撃し、多少なりとも損害を与えてから開戦しようと考えていました。 しかしいざ爆撃をしてみると航空戦力は想像以上の戦果をあげました。
それを機に各国で航空戦力と戦艦の評価が大きく見直されたのです。 そして海戦は大砲を積んだ戦艦同士の撃ち合いから、空母に搭載した爆撃機の爆撃へと変わっていきました。
ちなみに真珠湾で多大な戦果をあげた当の日本は、旧来の大きな大砲を積んだ戦艦を運用する大艦巨砲主義からの脱却に遅れをとりました。 ミッドウェー海戦でボロボロに負けてようやく航空戦力の重要性を認めるも、完全な方針の切り替えはできず、敗戦を余計に加速させることとなりました。
戦艦は大戦後もしばらくの間は運用されていましたが、徐々にその数を減らしていきます。 そして今は軍艦と言えば空母のことを指すようになりました。
しかし創作世界においては戦艦は根強い人気を誇っています。 空母より戦艦の方が男心をくすぐるものがありますよね。