【日本史|飛鳥時代】

飛鳥時代は592~710年まで続く時代で、都が奈良県の明日香村にあったことに由来しています。
中国(隋・唐)の進んだ文化を取り入れ、国としての体裁を整えて中央集権化を進めた時代です。
飛鳥時代の主な出来事
朝鮮半島の勢力喪失
倭国は朝鮮半島南部に進出、百済と新羅を占領して属国にして高句麗まで攻め上がりますが、強国の高句麗に押されてジワジワと後退し影響力を失います。 伽耶国も百済と新羅に切り取られ始め、倭国は挽回のため新たに派兵しようとします。
しかし527年、新羅と結んでいた豪族・磐井による「磐井の乱」によって派兵は阻まれ、磐井の鎮圧に1年半の時間を要します。 そうしている間に朝鮮半島の影響力を失い、朝鮮半島から全面撤退することとなりました。伽耶国はその後562年に新羅に滅ぼされます。
派兵に失敗して散々な目にあった倭国ですが、この頃に百済を通じて大陸の進んだ文化を輸入しています。 漢字、儒教、仏教などはこの頃に伝来したと考えられています。
仏教の伝来と崇仏論争
6世紀中ごろ、大陸から伝来した仏教を倭国でどのように扱うかで揉めます。 渡来人と関わりが深かった蘇我氏は仏教を支持、対して神道に携わっていた物部氏・中臣氏は神道を支持し仏教を否定していました。 これを崇仏論争と言います。
蘇我氏と物部氏の対立は代替わりした後も続き、皇位継承問題もあって対立が激化しました。 そして587年、蘇我馬子を中心とした豪族や皇族たちが物部守屋を攻め滅ぼして決着します。 それから日本では仏教が盛んになっていきます。
馬子は自分を支持していた崇峻天皇を即位させ、朝廷への影響力を広げていきます。 しかし崇峻天皇は蘇我氏の勢力拡大を快く思わず馬子と対立し、やがて馬子に暗殺されてしまいます。
崇峻天皇は臣下に殺された唯一の天皇、推古天皇は日本初の女性天皇です
592年に馬子は姪を推古天皇として即位させます。 推古天皇は蘇我氏を抑えるため、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政にします。 厩戸皇子は天皇と蘇我氏の両者のバランスを取りながら、その才覚を発揮します。
遣隋使の派遣
中国大陸では戦乱が終結して589年に隋が中国を統一しました。 超大国の誕生による国際情勢の変化に対応するため、倭国は600年に遣隋使を派遣します。
第一回の遣隋使は中国側(隋書倭国伝)にのみ記述が残っています。 詳細は不明ですが、倭国の体制が時代遅れなので改めるよう言われたようです。
それから厩戸皇子は国家の体制を整えます。 603年には豪族の地位を冠の色で分かるようにした冠位十二階を、604年には国民の心構えと国のあるべき姿を示した十七条憲法を制定します。
十七条の憲法の多くは元ネタが儒教にあり、冠位十二階も中国古典に影響を受けています。
国家の体制を整えた厩戸皇子は、607年に小野妹子らを遣隋使として派遣しました。 隋の皇帝・煬帝と会見し、以下の文章から始まる国書を渡します。
国書
日いずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。
これを見た煬帝は激怒しました。 怒った理由は倭国が超大国である隋と対等の立場で接しようとしたためと考えられています。
隋は皇帝を頂点として周辺諸国の支配者と君臣関係を結んでその地の統治を認めるという「冊封体制」を築いていました。 そこにいきなり後進国がやってきて対等に接してきたら、まあ空気読めよという話になりますよね。
しかし遣隋使は受け入れられ、608年には隋から裴世清が派遣されて交流が始まります。 これは隋が高句麗と戦争しており倭国との関係を拗らせたくなかったためと考えられています。 厩戸皇子はその国際情勢を理解した上で無礼な書を持たせたのではないかとも言われていますね。
遣隋使は五度派遣され、隋の進んだ文化を倭国へ取り入れました。 そんな隋は公共事業や高句麗との戦いで国民に負担を強いた事で反感を買い、やがて大規模な反乱に発展して618年に滅亡、代わって唐が興りました。
倭国は630年には遣隋使に代わって遣唐使を派遣するようになり、引き続き大陸の進んだ政治や文化を取り入れる動きは続きます。 倭国は唐王朝に倣って、中央集権の律令国家を目指していきます。
乙巳の変
朝廷の中心人物が相次いで亡くなります。 622年に厩戸皇子、626年に蘇我馬子、628年に推古天皇が没します。
厩戸皇子は死後、聖徳太子の称号を贈られました。
朝廷の中心は厩戸皇子の子・山背大兄王と、蘇我馬子の子・蝦夷と孫・入鹿に代替わりします。 順当に行けば推古天皇の次の天皇は山背大兄王でしたが、山背大兄王と対立していた蝦夷は舒明天皇を即位させます。 そして蘇我氏は643年に山背大兄王を襲って滅ぼしてしまいます。
朝廷は蘇我氏が専横するようになり、天皇ですら表立っての反抗はできませんでした。 そんな蘇我氏を打倒すべく中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後に藤原姓に改姓)らが立ち上がります。
645年にクーデターにより蘇我入鹿を暗殺、その父・蝦夷を自殺に追い込んで蘇我氏の中心は滅亡します。 これが乙巳の変です。
大化の改新
乙巳の変の後、皇極天皇が退位して弟・孝徳天皇が即位します。 日本初の元号である「大化」を定めて645年を大化1年とし、その翌年に改心の詔を出します。
改心の詔は中国(唐)の律令制を参考にした「全ての土地と人民は天皇に帰属する」という公地公民制を目指したものです。 豪族の私有地や私有民の廃止、戸籍を作って農民に土地を割り当て収穫物を治めさせる班田収授法や、租庸調の税制などが定められました。
この改心の詔による政治改革を大化の改新と言います。
白江村の戦い
660年、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼします。 百済の王子は倭国に救援を求め、それを受けた倭国は662年に5万の兵を率いて朝鮮半島へと向かいます。
倭国軍は斉明天皇が自ら兵を率い、皇太子の中大兄皇子と共に行軍していました。 しかし福岡に差し掛かったところで斉明天皇は崩御してしまい、天皇不在のまま朝鮮半島へと渡ります。
そして663年に白村江にて、倭国・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍の戦いが始まります。 しかし船や武器の技術水準も、兵隊の練度も唐・新羅連合軍には及ばず、倭国は手酷い敗北を喫して逃げ帰りました。
逃げ帰った中大兄皇子は唐・新羅が攻めてきた時のために、九州に国境警備として防人を置く、筑紫に水城を築く、都を内陸の近江・大津宮に遷都するなどの対策を取りました。 日本が受けた衝撃と焦りがよく分かりますね。
しかし当の唐と新羅は結局攻めてはきませんでした。 日本を破った勢いで高句麗を滅ぼすも、その後は仲違いしてそれどころではなかったのです。 最終的に新羅が朝鮮半島を統一し、唐が追い出されます。
壬申の乱
668年に中大兄皇子が天智天皇として即位するも、3年ほどで病気になってしまいます。 元々次の天皇は弟・大海人皇子がなるはずでしたが、天智天皇は長子・大友皇子を後継者として指名しました。
大海人は身の危険を感じ、出家すると言って大津宮から離れて兵を集めます。 やがて天智天皇が没すると大海人皇子は東国の豪族の支持を集めて挙兵して都を目指しました。
大友皇子は西国を纏めて対抗しようとするも、朝鮮出兵の疲弊もあって足並みが揃いませんでした。 戦いは大海人皇子の勝利に終わって大友皇子は自殺します。
673年に大海人皇子は都を飛鳥浄御原に遷都し、天武天皇として即位します。
大宝律令
天武天皇は公地公民を進めるべく、飛鳥浄御原令を編纂します。 天皇を中心とした統治体制を構築すべく、法を整え律令国家としての体制を整えました。 その一環で皇族の地位向上と豪族の序列の再編のため、八色の姓を施行します。
また国号を倭から日本へと変更し、従来の大王の呼称を天皇に統一します。 天武天皇は日本の国家としての基礎を築いた人物なんですね。
他にも政治の中心とする都・藤原京を造営を始めたり、日本最古の貨幣である富本銭を作ったりもしています。 藤原京は中国の長安を真似て作られましたが、この時期は遣唐使が停止されていたため中国の古典書物を参考にしました。
富本銭が流通して使われていたかは疑問視されており、流通した中で日本最古の貨幣は和同開珎とされています。
686年に天武天皇が崩御して妻が持統天皇として即位、天武天皇の政策を引継ぎます。 飛鳥浄御原令を施行し、戸籍を完成させて農民に口分田を割り当てました。 そして694年に藤原京が完成すると遷都し、孫の文武天皇に皇位を譲って自身は上皇となりました。
701年には飛鳥浄御原令に代わって大宝律令が制定され、翌年施行されます。 刑法である「律」と民法である「令」が整備されたもので、日本は律令国家としての体裁が整います。
行政機関も刷新して二官八省とし、また日本を五畿七道に分けその下に66の国、更に郡、里と分けて朝廷の命令が日本全国に伝わるように整備しました。
また税制に租庸調に加えて雑徭と兵役が追加されたのですが、これらの負担が重すぎて逃げ出す人が続出します。 これによって律令制が崩壊してしまうのですが、それはまだ先の話でしょうか。
702年、白村江の戦い以来停止していた遣唐使が再開されます。 最新の中国事情が分かると共に、中国古典を参考に作っていた藤原京が時代遅れの様式をしていたことが分かります。 そうして中国の最新様式に合わせた平城京の造営が始まります。
710年に言明天皇が即位し、平城京が完成して遷都すると飛鳥時代は終わり、奈良時代が始まります。
日本最古の史書「古事記」と「日本書記」の編纂
飛鳥時代の後期、天武天皇の命令により日本で最初の歴史となる「古事記」と「日本書記」の編纂が始まりました。 完成するのは奈良時代に入ってからですが、これらはほとんど同時期に成立しました。
この二冊はどちらも史書(歴史書)であり内容は似ていますが、編纂された目的が違います。
古事記
古事記は天皇家の支配の正統性を知らしめ歴史を記すための、国内向けの歴史書として編纂されました。 712年に成立した日本最古の書物です。
日本語の音に漢字を当てた和化漢文にて、物語調で書かれています。
日本書記
日本書記は日本が対外的に国として認められるため、国外向けの歴史書として編纂されました。 720年に成立した日本で二番目に古い書物です。
漢文にて、編年体(時系列)で書かれています。