【日本史|弥生時代】

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弥生時代は紀元前2~3世紀~(紀元後)3世紀頃の時代を指します 「弥生」という名前はこの時代に使っていた丸く機能的な土器が東京の弥生町で発見されたことにちなんでいます。

弥生時代は本格的に農業が始まった時代でもあり、安定した食料生産により人口が大きく増加しました。 そして本格的な戦争が始まった時代でもあります。

渡来人による文化の伝来

縄文時代後期~弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から「渡来人」の集団がやってきました。 大陸東北部の状勢が不安定で、日本に避難してきたと考えられています。

渡来人は主に北九州沿岸に定着し、それにより大陸の優れた技術が日本に伝わります。 特に「稲作」と「金属器」は日本に多大な影響をもたらしました。

稲作は百年ほどかけて日本全土に広がりました。 しかし北海道や東北地方などの寒い地域では稲がうまく育たず、この時代にはあまり普及しなかったようです。

東北は米の一大産地であるイメージが強いですが、本格的な稲作が始まったのは米の品種改良が行われた明治以降です。

稲作の与えた影響

渡来人は様々な技術を日本に伝えましたが、特に稲作が与えた影響は大きいです。

それまでは日々の暮らしの中でエネルギーの多くを食料の確保に向ける必要があり、他の事をする余裕がほとんどありませんでした。 しかし稲作により食料を安定生産・貯蔵できるようになり、今まで食料の確保に向けていたエネルギーを他に向けられるようになったのです。

また従来は各々が狩りや漁を個人で行っていたのに対し、農業は集団での作業となります。 食料の貯蔵量や農業の役割分担は貧富の差となり、村に身分の上下や有力者が生まれました。

また稲作と共に弥生土器も広がっていきました。 弥生土器は中に均等に熱が伝わるため特に米の煮炊きに便利な、縄文土器よりも機能的な土器です。

鉄と青銅器

渡来人は鉄と青銅をもたらしました。 人類史的には鉄器よりも青銅器の方が先に登場しましたが、日本にはそれらがほぼ同時に伝来しました。

青銅は鉄と比べると柔らかいので、主に祭器として使われました。 世界的には青銅器が実用的に使われた時代もありましたが、鉄器と一緒に伝来した日本ではあまり使われませんでした。

鉄器は固いので農具や武器などの実用的なものに使われました。 ただ日本では鉄があまり産出しなかったので、鉄器が広く普及するのに時間がかかったようです。

戦争の始まり

農業による食料の安定供給は人口の増加を促し、農業用地や水が不足します。 やがて人々は集落に足りないリソースの解消を他の集落から奪おうとするようになり、時代は共同体同士の戦争へと発展していきます。

平和で牧歌的だった縄文時代は終わり、戦争の時代へと入っていきます。 集落は互いに争って戦争し、勝者はより強大な集落となります。

やがて集落は「クニ」へと発展し、クニの指導者は「王」として君臨します。 紀元前100年頃の日本は100余国に分かれ、盛んに中国へ朝貢していた記述が残っています。

戦争の痕跡

この時代の集落は丘や山の上に作られた高地性集落や、周囲を濠で囲んだ環濠集落などが見つかっています。 これは集落を外敵から守りやすいように作って戦争への備えをしていたということですね。

また発掘された弥生時代の遺体には、争いで死んだ痕が見られるものが多く発見されています。 これは縄文時代の遺体にはあまりない特徴であることから、本格的な戦争は弥生時代から始まったと考えられています。

中国の史書から見る日本

弥生時代の日本に書物は存在しませんが、大陸に日本のことを記した史書が存在します。

「漢書」地理志

紀元前100年頃、日本に住んでいた人「倭人」たちは百国以上に分立していました。 それら国々の一部は楽浪郡(漢の武帝が朝鮮半島に設置した行政府)にたびたび使節を送っていました。

「後漢書」東夷伝

57年、倭の奴国王が後漢の都・洛陽へ使節を派遣し、朝貢して属国と認められました。 その印として洪武帝より「漢倭奴国王」と掘られた金印を与えられています。 つまり「漢の名代として倭を治める奴国の王」として漢から認められたという訳です。

その後も107年頃に倭国王が奴隷を献上しに行った記録が残っています。 2世紀初頭には倭国は連合国家となっていたようですが、あまり長続きはしなかったようです。 2世紀の後半になると大規模な内戦である「倭国大乱」の時代を迎えます。

「魏志」倭人伝

239年、魏に邪馬台国の女王・卑弥呼が送った使節が朝貢しにやってきました。 使節が奴隷や織物を献上したのと引き換えに、魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印などを授けました。

邪馬台国は30の国を従えた連合国家で、元々は男王が治めていました。 しかし国が荒れたため、女王・卑弥呼を立てたようです。

卑弥呼は巫女として神の声を伝える形で民衆を導いていました。 卑弥呼は248年に没しその後は男王が立てられましたが、男では上手く国を治められず、女王壱与を立ててようやく国が安定したようです。

魏志倭人伝には邪馬台国から魏までの行程が書かれていますが、記述が曖昧で邪馬台国の正確な位置は謎のままになっています。 地理的に中国に近い北九州説と、古代日本の中心地である奈良説が有力説とされ、他にもいくつかの説があります。

初代天皇「神武天皇」が誕生したとされる時代

日本書紀によれば日本の初代天皇とされる神武天皇は縄文時代後期~弥生時代初期頃の人物と考えられています。

九州の有力者だった神武天皇は45歳のころに東夷を決意して進軍、近畿を制圧して奈良県の中部辺りに都を構えたそうです。 そうして紀元前660年に初代天皇「神武天皇」として即位したとされています。

ただ日本書紀の真偽は疑問視されているものが多いです。 特に紀元前660年の話なんて日本書紀が編纂された1300年以上前の出来事で、まあ普通に考えれば信用が置けるものではありません。 そんな事情もあって26代までの天皇は本当に実在したのか疑問視されています。

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