【日本史|古墳時代】

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古墳時代は250~600年末頃、ヤマト政権によって日本統一が進められたと考えられている時代です。 近畿を中心に大量の古墳(墓)が見つかっていることから古墳時代と呼ばれています。

この頃の日本で何があったのか詳しいことは分かっていません。 日本各地に残る痕跡や、大陸にある記録から推察されています。

ヤマト政権による統治

この時代は近畿地方を中心に沢山の古墳が建てられており、その数は16万基にも及びます。 形にも前方後円墳、上円下方墳、八角形などいくつか種類があります。

画一的な古墳が各地に作られていること、また共通点の多い副葬品が発掘されていることから、この頃の日本は単一勢力が広い範囲を統一していた考えられています。 この勢力をヤマト政権と言います。

ヤマト政権は邪馬台国の後身ではないかとも考えられていますが、よく分かっていません。

ヤマト政権は盟主の「大王(おおきみ)」を筆頭に各地の豪族が集まった連合政権です。 朝鮮半島に攻め込んだ記録が残っており、海外に派兵する余裕があったことから国内情勢は安定していたと考えられています。

大陸との関わり

中国大陸は晋が統一するも、後に動乱の時代へ

中国が魏、呉、蜀に分かれて争っていた三国時代、魏が大陸を統一しつつありました。 しかし魏は重臣のクーデターによりひっくり返って晋王朝が始まり、晋は残りの勢力を滅ぼして3世紀末頃に中国を統一しました。

魏には邪馬台国の卑弥呼が、晋には倭国の女王が使節を送っていた記録が残っています。 晋に使節を送った勢力と人物は定かではありませんが、邪馬台国の卑弥呼の2代後の女王・壱予ではないかと考えられています。

晋が大陸を統一した後も大陸の情勢は安定せず、内乱によって50年ほどで晋は終焉を迎えます。 大陸は群雄割拠状態となり、その後300年もの間統一王朝は現れませんでした。 絶対的な権勢を誇っていた中国の影響力が弱まったことで、東アジアでは独立の気運が高まりました。

そんな中国の南北朝時代に、南側で勢力を誇っていた宋があります。 宋には倭国の五王(讃、珍、済、興、武)が1世紀に渡って代々朝貢した記録が残っており、武は478年に安東大将軍に任じられています。

朝鮮半島と倭国

4世紀には朝鮮半島で高句麗・新羅・百済の三国が勢力を強め互いに争っていました。 そんな中で倭国は半島南部の地域・伽耶との関係を深め、朝鮮半島へ進出しようとしていました。 (鉄資源が目的とも言われています)

この頃の朝鮮半島は高句麗が勢力を誇り、百済と新羅はその属国のような扱いでした。 そこに391年に倭国がやってくると、百済と新羅を倒して属国としてしまいます。

倭国は朝鮮半島においてそれなりに権勢を誇っていたようです。 またこの時期に百済を通して、仏教、文字、土木などの優れた文化や技術を輸入しています。

大陸の史書の中の日本

晋書

266年、倭国の女王が晋へ使節を派遣した記憶が残っています。

この女王は邪馬台国の壱与ではないかと考えられています。

広開土王の碑

晋書から以降100年ほど、中国の史書には日本に関する記述がありません。 その間の日本は誰が治めてどうなっていたのか謎が多いですが、朝鮮半島に渡って戦っていた痕跡が残っています。

高句麗の王・好太王(広開土王)の業績を称えた「広開土王の碑」に、4世紀頃に日本と高句麗が戦ったことが記録されています。

「宋書」倭国伝

宋と諸外国の外交記録が書かれた書物です。 倭国伝には倭とのやり取りが記され、倭の五王から朝貢されたこと、倭王武が安東大将軍に冊封されたことなどが書かれています。

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