【日本史|奈良時代】

奈良時代は奈良の平城京に都があった710~794年までの時代を指します。
藤原氏と貴族が互いに権力争いをして、隆盛と失脚を繰り返した激動の時代です。
藤原氏と貴族で実権を争った激動の時代
藤原不比等の時代
中臣鎌足の子で藤原姓を貰った藤原不比等を中心とした藤原氏は、天皇家と身内を結婚させることで確固たる地位を築きます。
娘・宮子を文武天皇に嫁がせ、文武天皇と宮子の間に聖武天皇が生まれ、聖武天皇に娘・光明氏を嫁がせるなどして、藤原氏は天皇家の外戚となります。
これは奇しくも父・中臣鎌足が打倒した蘇我氏のような立ち回りですね。こうして藤原氏は朝廷の権力を掌握していきます。
長屋王の時代
720年に藤原不比等が亡くなると、天武天皇の孫・長屋王が実権を握ります。
藤原不比等の子の四兄弟は妹・光明氏を聖武天皇に嫁がせようとするも、長屋王は皇族でない藤原氏が皇后になるのに反対します。 この頃は天皇が崩御すると妻が即位するなんてこともあったので、平民の藤原氏が天皇になってしまう可能性を嫌ったんですね。
これにより長屋王と藤原氏は対立していました。 藤原四兄弟は目障りな長屋王を排除するため、729年に濡れ衣を着せて襲い掛かり、自殺に追い込んでしまいます。
藤原四兄弟の時代
藤原四兄弟は聖武天皇に嫁いでいた妹を皇后にすることで政治の実権を握ります。
しかし四人はほどなく天然痘で全員死んでしまい、中心人物を失った藤原氏は政権中枢からやや遠ざかることになります。
橘諸兄の時代
次に実権を握ったのは光明皇后の異父兄弟である橘諸兄です。 藤原氏とは血縁ではありませんが親戚にあたります。
諸兄は遣唐使にて唐の制度を学んだ吉備真備を重用して政治を行いました。 これに藤原広嗣が反発しましたが、九州の太宰府に左遷されてしまいます。
それから広嗣は兵を集めて740年に藤原広嗣の乱を起こすも、反乱は鎮圧されて死刑となります。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の時代
光明皇后の後ろ盾の下で藤原仲麻呂が順当に力を付けていきます。
聖武天皇が病気で倒れて娘・孝謙天皇が即位すると、孝謙天皇の信任が厚かった仲麻呂は昇進して政権を掌握し、勢力図は塗り替わり橘諸兄は追いやられました。 757年に橘諸兄の子・奈良麻呂がクーデターを企てるも、事前に発覚して処罰されます。
藤原仲麻呂は758年に孝謙天皇を譲位させて孝謙上皇とし、自身と親しい淳仁天皇を即位させました。 そして藤原仲麻呂は天皇から恵美押勝の名を賜ります。
761年に孝謙上皇が病に伏せると、僧侶・道鏡が看病をしました。 それを切っ掛けにに孝謙上皇は銅鏡に入れ込むようになり、それを諫めた押勝との関係が怪しくなっていきます。
道鏡の時代
押勝は道鏡を排除すべくクーデターを企てるもは失敗、押勝は殺されてしまいます。 淳仁天皇はクーデターには加わりませんでしたが、後ろ盾を失ったことで失脚して島流しにされてしまいます。
道鏡は孝謙上皇を称徳天皇としてもう一度天皇に即位させ、自身は法王となって独裁政治を行いました。 銅鏡の身内が権力中枢に入り込み、仏教関連の政策に力を入れ寺社勢力の権力が強くなります。
藤原百川の時代
770年に称徳天皇が没すると、後ろ盾を失った道鏡は失脚して島流しにされました。 次の実権を握ったのは藤原百川です。
天智天皇の孫・光仁天皇を立て、荒れた朝廷の立て直しをしました。 財政の健全化と政治腐敗の一掃を図り、その方針は次代の桓武天皇に引き継がれます。
桓武天皇の時代と、平安京への遷都
桓武天皇は皇族ではありましたが、母親の地位が低かったため天皇になる可能性は低く官僚として働いていました。 しかし藤原氏と貴族の政争の影響により異母兄弟たちが廃嫡され、781年に天皇に即位することとなりました。
そのため桓武天皇は優れた実務能力を持っており、稀に見る天皇親政を行い政治手腕を発揮しました。
784年、桓武天皇は都を平城京から長岡に遷都します。 これは平城京の交通の便が悪いのを解消するのと、政治に口出ししてくる貴族や宗教勢力から距離を置く目的がありました。
しかし都を造営している最中で、遷都の責任者・藤原種継が暗殺される事件が起こります。 これは遷都に不満を持っていた大伴氏の勢力による反抗で、犯人は処刑されました。
更に桓武天皇の弟・早良親王が大伴氏と通じていた疑いにより、淡路島に島流しにされることになりました。 早良親王は身の潔白を訴えましたが聞き入れられず、断食によって抗議し護送途中で死んでしまいます。
それからほどなくして、桓武天皇の妃や母が死に、都では洪水が起こり疫病が広まるなど、不幸が立て続けに起きました。 「これは無念のまま死んだ早良秦王の祟りではないか」とまことしやかに囁かれ、長岡京に遷都してから10年ほどで遷都することになりました。 そうして造営されたのが平安京です。
この平安京への遷都を以って奈良時代は終わり、400年続く平安時代の幕が開けます。
農地改革と公地公民の崩壊の始まり
三世一身の法
この頃は人口が増えて割り当てる口分田が不足したため、農民が開墾したらそれから三世代に渡って農地の私有を認める「三世一身の法」を制定しました。
しかし期限付きの私有は開墾する動機になりにくく、また期限が近づいた農地は手入れを放棄して結局荒れ地になるため、制度として問題あり20年ほどで廃止されました。
法墾田永年私財法
三世一身の法に変わって制定されたのが「墾田永年私財法」です。 この頃は聖武天皇が在位しており、仏教の力で国を治める鎮護国家を目指していました。
国分寺や大仏作る資金を捻出するため、地方の豪族や寺社に譲歩する形で新たに開墾した土地の私有を永久に認める「墾田永遠私財法」を定めます。 これと引き換えに寺や仏像の建造を手伝わせることを目的にしていましたが、地方勢力の私有地を認めるこの制度は公地公民制を崩壊させる第一歩となります。