方丈記(鴨長明)-あらすじと感想

Visions of a Torn World

方丈記は平安末期から鎌倉時代の頃に発表された鴨長明の随筆です。 冒頭の「行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず」の一節は有名ですね。

方丈記は「徒然草」「枕草子」と共に日本三大随筆の一つに数えられています。 鴨長明は神職でしたが希望通りの職に就けず、京の都は度重なる天災によって荒れ果てていました。 そんな中を生きた長明の無常観がよく表れた随筆です。

あらすじ

川の流れは絶えることはなく、しかも元の水ではありません。 水面に浮かぶ泡は浮かんでは消え、片時も留まることはありません。世の中の人や住処もまた同じです。

都の屋敷は月日が経ってもなくならないもののように思えますが、しかしよく調べてみると昔からある家は稀です。 人もまた同じで、朝に生まれ夕に死ぬ様は水に浮かぶ泡によく似ています。

この世は仮の宿であり、人と家の関係は朝顔に似ています。 先に露が落ちても朝には花は枯れ、先に花が枯れても夕には露は消えます。

安元の大火

私が物心付いてから40年あまりが過ぎましたが、不思議な出来事を度々見てきました。あれは安元3年の風が激しく吹く夜、都に火の手があがって風に吹かれて燃え広がり、一夜にして街は塵灰となりました。

人は煙にむせて倒れ、炎に巻かれて死に、あるいは我が身一つで何とか逃げ出したかもしれません。都の三分の一が焼け、数十人が死に、牛や馬の犠牲は数えようもありません。

人の営みはみな愚かなものとは言いますが、こんな危険な京の都に家を建てるために蓄財して心を悩ませるのは何とも無益なものです。

治承の辻風

治承4年頃、中御門京極の辺りで大きな竜巻が起き、六条辺りまで吹いたことがありました。家々は被害を受け、家財は冬の木の葉のように飛び、怪我をして四肢を失った人も数え切れません。

こんな経験は今までなく、人々は何か超常の存在の思し召しではないかと疑いました。

都遷り

治承4年に突如として400年ぶりの遷都が行われました。 遷都は余程のことがない限りは行われないもので、人々はこれを大層不安がりました。

偉い人たちは家をバラして新都へと移り、旧都に残るのは頼るところの無い人ばかりです。家々は時が経つごとに荒れていきました。

この頃たまたま新都を訪れる機会があったのですが、その地は狭いのに空き地だらけで家は少ないものでした。 旧都は既になく新都は未完成で、誰もが浮き足立ったような気分で人心は乱れました。

そしてとうとうその年の冬に安徳天皇は旧都へと帰ってきましたが、既に壊された家々は昔のままという訳ではありませんでした。

養和の飢饉

養和の頃に二年に渡って飢饉に見舞われて、世は酷い有様でした。 春夏は日照りが続き、秋冬は台風や洪水に見舞われて作物は軒並み不作となりました。

人々は村を捨てて山に住むようになり、様々な祈祷もされましたが何も効果はありませんでした。 京の人々の生活は田舎からくる人や物あってのものなのに何も都に入ってこないので、人々は財宝を投げうって食べ物を得ていました。

翌年には疫病まで起きて事態は悪化し、人々が日に日に追い詰められていく様はまるで少ない水の中で死んでいく魚のようです。

立派な身なりをしている人が物乞いをして回り、道や川原は死体で溢れかえっています。 木こりは木を切る力が残っておらず、家を壊して薪にする者や、仏具を割って薪にする者までいました。

家族は相手を想う気持ちが深い者から死に、親子は親から先に死んでいきました。母親が死んだのを知らないで幼子が乳を吸っていたこともありました。

仁和寺の隆暁法印は人々の死を悲しみ、死体の額に「阿」と書いて供養の勤めをされました。 死者数を二か月かけて数えた所、京都だけで4万2300余の死体があり、その前後の時期や全国各地を加えれば大変な数になったでしょう。

元暦の地震

同じ頃に大地震があり、山は崩れ川は埋もれ海は傾きました。 都で無傷な建物は何一つなく、崩れたものや倒壊したものもありました。 地震は暫くして止みましたが余震は日に何度も起こり続け、3か月ほど経ってようやく止みました。

四大元素の大水、大火、大風は常に害をなすものとして知られていますが、大地が害をなすことは滅多にありません。地震後は皆が事態の虚しさを語りましたが、月日が経つと口に出す人は少なくなっていきました。

世の中生きにくい

世の中は生きにくいものです。 権力者の側にいれば喜ぶことはあっても楽しむことはできず、金持ちの側に住む貧乏人は自分を恥じて心が落ち着かず、家が並ぶ場所に住めば火が燃え移るかもしれず、辺鄙な場所に住めば街へ行くのが煩わしいものです。

権力者は欲深いけれど後ろ盾がなければ軽んじられ、お金持ちは心配事が多いけど貧乏人は嘆き、世間に従えば我が身は苦しく世間に従わなければ狂人のように見られます。どこに住んでどうすれば心が休まるのでしょうか。

我が家

私は長らく継いだ屋敷に住んでいましたが、やがて落ちぶれて家に住み続けることができなくなり、三十歳頃に粗末な庵を作って住まいました。

ままならない世の中を生きるも思い通りにはならず、妻子も親類も官位も俸禄もないので五十歳の春に出家して世捨て人となり、大源山に五年ほど住みました。

六十歳になると山奥に簡単な家を作って生活するようになりました。春は藤の花を見る、夏はホトトギスの声を聴く、秋はひぐらしの鳴き声が聞こえる、冬は雪を愛でる。 読経に身が入らない時は怠け、時に船を眺め、時に琵琶を演奏して歌いました。誰に聞かせる訳ではなく、自分を慰めるためのものです。

ここに住み始めた頃はほんのしばらくの間と思いましたが、もう五年が経ち仮の庵はふるさとのように思えてきました。狭い庵ですが一人で住むのに不自由はありません。

私は世の無常を知り、無益な願いは持たず、静かでいることを望み、悩みが無い事を楽しみます。 世の人々が家を作るのは自分のためだけではありませんが、私は自分のためだけに庵を結んでいます。

やるべきことは従者を使うよりも自分でやった方が気楽なので、自分が自分の従者となるのが一番です。 人と会わないから己の貧しさを恥じることもなく、食べ物は少ないですがこれは努力不足なので甘受するしかありません。

心が安らかでなければ宝も宮殿も意味がありません。 私はこの寂しい住まいを愛しています。

終わりに

さて私の命も残りわずかとなりました。 私が世を捨て山に入ったのは心を鎮めて悟りを開くためでしたが、私の姿は聖人のようでありながら心は穢れに満ち、修行の成果は愚鈍にも及びません。これは因果の応報か、はたまた煩悩故の狂気でしょうか。

自分に問うても答えは返ってこず、人を救うと言われている阿彌陀仏を口に出して呼んでみましたが二、三回で止めにしました。

建暦二年三月晦日、僧門の蓮胤、日野外山の庵にてこれを記す。

感想

荒れた世の中の無常と鴨長明の無常観がよく表れた作品ですね。

鴨長明は下鴨神社の神職の家系でしたが、17歳の頃に父が早逝して立場を弱めて希望通りの職に就けませんでした。 その後の人生もあまり上手くいかず、やがて世捨て人となって山に籠って庵を結んだ訳です。

京都で過ごしていた頃の記述は悲惨なものばかりですが、山に引きこもってからは気楽な生活を楽しんでいた事が伺えるます。 心が安らかでなければ何も意味がないという言葉は心の深い所に刺さってきますね。

煩わしい世を捨て一人生きることを決め込んだ長明に、憧れのようなものを抱く人もいるのではないでしょうか。 疲れた時に読むとどこか慰められるような一冊です。

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