瓶詰地獄(夢野久作)-あらすじと感想

Bottled Hell

瓶詰地獄は1928年に発表された夢野久作の短編猟奇小説です。 海岸に打ち上げられたビール瓶の中に手紙が入っており、離島に漂着した兄妹の苦悩と顛末が綴られている体で物語が描かれています。

この物語は読者に解釈を委ねる部分が意図的に残されており、読み直す度に「実は真相はこうではないのか?」と考えさせられます。 あらすじでは分かりにくい部分もあるので、興味を持った方はぜひ原本をお読みください。

あらすじ

海洋研究所様

潮流研究用と思われる三個の封蝋付きビール瓶を発見したので届け出いたします。

これらは随分前に漂着したもののようで、中身も雑記帳の破片で漂着日時は分かりませんでした。 しかし何かのご参考になるかと三個とも封瓶のままお送りいたしますので、ご確認ください。

村役場より

第一の瓶の内容

この離れ島に救助船がとうとうやって来ました。 船から救助用ボートが降ろされ、船の上には私たちの両親の姿も見えます。 きっと私たちが出した瓶の手紙をご覧になって助けに来てくれたのでしょう。

船から汽笛の音が聞こえてきましたが、それは私たち二人にとって最後の審判の日のラッパより恐ろしい響きでした。 手が震えて涙で眼が見えなくなります。

私たちは今から崖に登り、船から見えるように抱き合ったまま海に身を投げて死にます。 そうすればサメが私たちを食べてくれるでしょう。その後この手紙を詰めたビール瓶をボートに乗っている人々が見つけて拾って下さるでしょう。

お父様。お母さま。すみません。すみません、すみません、すみません。 助けに来て下さった皆様のご親切に対してこんなことをして本当に申し訳ありません。 私たちはこうして肉体と魂を罰せねば、犯した罪の償いができないのです。 私たちはサメのエサになる値打ちしかない痴れ者だったのです。 さようなら。

神様からも人間からも救われ得ぬ哀しき二人より

第二の瓶の内容

船が難破して十一歳だった私と七つになったばかりのアヤ子の二人がこの小さな離れ島に流れ着いてもう何年になるでしょう。 この島は年中が夏のような気候なので良く分かりませんが、もう十年ぐらい経ったように思います。

私たちが持っていたのは、一本のエンピツ、ナイフ、一冊のノート、一個のムシメガネ、三本のビール瓶と、小さな聖書だけでした。 しかしこの島には豊富な果物があり、鳥や魚も一年中いくらでも取ることができ、虫メガネで火を起こして焼いて食べました。

服も破れてしまったので野蛮人のように裸で生活していましたが、それでも朝晩は二人で崖に登って聖書を読みお祈りをしました。 私たちはお父様とお母さまに手紙を書いてビール瓶の中に入れ、樹脂で封じて海に投げ込みました。それから誰かが来た時の目印となるよう、崖の上に棒きれを立てて木の葉を吊るしておきました。

私たちは時々けんかもしましたがすぐに仲直りして、学校ごっこなどをしていました。 私はアヤ子に聖書の言葉や字の書き方を教え、聖書を両親とも先生とも思って大事にしました。 私たちは幸せでこの島は天国のようでした。

しかし二人の幸せに恐ろしい悪魔が忍び込んできました。 いつからか分かりませんが、私はアヤ子を異性として意識するようになり、そしてアヤ子もまた私を見る様子が変わりました。 互いに二人の心を分かっていながら、しかし神様の罰を恐れて口には出せずにいました。

私が生きているのはこの上ない罪悪ですが、しかし私が死ねば尚更深い悲しみをアヤ子に与えることになります。 いっそ私を稲妻で殺してくださいと祈っても、神様は何もお示しなさいません。 やがて我慢できなくなった私は崖上に立てた救助船への目印を引き倒し、アヤ子の名を叫びながら探しました。

するとアヤ子は岬の大岩の上に跪いてお祈りをしていました。 大岩の上で夕日を受けて輝いている乙女の背中の神々しさと、荒波を浴びながら一心不乱に祈る気高さを見ているうちに、アヤ子の決心が分かりました。

それからの私たちは夜となく昼となく哀しみ、歯噛みしなければならなくなりました。 お互いを抱き合うことも慰め合うことも、同じ場所で寝ることさえもできない気持ちになってしまいました。 しかし私と同じ苦しみに囚われているアヤ子の悩ましい瞳が、神様のような悲しみと悪魔のような微笑みで、いつまでも私をじっと見つめているのです。

鉛筆が無くなりかけているのでもうあまり長く書けません。 私は悩み苦しみながらも神様の罰を恐れる私たちの真心を瓶に封じ込めて海に投げ込もうと思っているのです。 せめて二人の肉体だけでも清らかなうちに…

ああ。何と恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、楽しい島はもうスッカリ地獄です。 神様はなぜ私たちを一思いに殺して下さらないのですか。

――太郎記す

第三の瓶の内容

オ父サマ。オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。

市川 太郎
イチカワ アヤコ

感想

この物語は読者が自由に解釈する余地を敢えて残していると考えられ、従って事の顛末の真実が何なのかも読者の解釈に任されています。 まずこの話を素直に最後まで読むと、手紙の順と時系列が逆転していることに気付きます。

第一の手紙は兄妹の死の間際の遺書、第二の手紙は兄妹の情愛に悩む兄の告白、第三の手紙は拙い文字と内容の救助要請に見えます。 以上を踏まえて時系列順に簡単にまとめると以下のようになります。

幼い兄妹が離島に流れ着き、第三の手紙を書きました。 手紙の文章が拙くカタカナが多いのは、まだ幼いからでしょう。

やがて十年ほど時が経って兄妹は成長し、互いを異性として意識するようになりました。 聖書を通してキリスト教的価値観を学んだ兄妹は関係を持つことを禁忌と考えるも、本能の誘惑に負けそうになります。 そんな折に兄が書いたのが第二の手紙です。手紙が上手になったのは学校ごっこの成果でしょうか。

更に月日が経ち、第三の手紙を読んで救助に来た船が二人を迎えにやってきました。 しかし二人はその時すでに一線を越えてしまっており、人の世に帰らずに死ななければならないと決心しました。 その時に遺書として書いたのが第一の手紙です。

こう考えると物語として筋が通ったように見えますよね。 しかしそういうことだったのかとこの解釈を前提にして話を読み直してみると、謎や矛盾点が出てくることに気付きます。

例えばこれらの手紙は封瓶された状態で見つかっているので第三の手紙は見つかっておらず、であれば両親が船に乗って救助に来たというのはいささか腑に落ちません。 他にも鉛筆の残りがない状態で第一の手紙を書けたのか、聖書一冊でどうやって漢字や文章の作法を学んだのか、そもそも三通の手紙の差出人は同じだったのかなど疑問は尽きません。

これらは本の情報から判断できるものではないので、どう解釈するかは読者に委ねられているように思います。 ネット上にも色々な解釈や矛盾点の指摘があるので、自分なりの解釈がまとまったら調べてみるのも面白いかもしれません。 中には中年おやじの書いた妄想小説なんて説もあったり…

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