菅原道真が怨霊から学問の神になった経緯

受験シーズンになると合格祈願のお守りを買いに北野天満宮や大宰府天満宮に行く人も多いですよね。 あそこに祀られているのが菅原道真で、学問の神としてあがめられています。

しかし菅原道真の晩年は割と悲惨で、学問の神になった経緯はあまり碌なもんじゃありません。 あなたが菅原道真だったら一体どう思うでしょうか?

菅原道真の華々しい経歴と悲惨な晩年

菅原道真は若干5歳で和歌を詠み、18歳には文学の教官である文章生となり、23歳で文章生の中の優秀な2名が選出される文章得業生となり、33歳にはその最高位である文学博士に上り詰めます。また弓術にも秀でており、百発百中の腕前を持っていたと言われています。

道真は幼少時代から神童として名高く、その後も努力を怠らずに精進し、エリート街道をまい進する傑物でした。 更に宇多天皇に重用され片腕として政治に携わり、その方面でも手腕を如何なく発揮しました。 その後宇多天皇は上皇となって醍醐天皇に皇位を譲り醍醐朝となりましたが、時代は変わっても出世を続けて遂に右大臣にまで上り詰めます。

学者の家系の出ある道真の右大臣への出世は異例と言えるものでした。 もちろん情勢の追い風=運もありましたが、道真が政治家としても優秀であった証左でしょう。 しかしこういった大出世は周囲の僻み妬みも買うものです。

また道真が進める中央集権政策を快く思わない貴族も大勢おり、左大臣である藤原時平を筆頭とした藤原家もまた、道真を快く思っていませんでした。 更に道真は宇多上皇との繋がりが強く、醍醐天皇は道真を宇多上皇の子飼いと見て、朝廷から排除したいという思いもありました。

そして901年、道真は醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようとしていると密告されます。 この真偽については諸説ありますが、この件で罪に問われた道真は申し開きも許されずに大宰府に左遷され、子どもたちも流刑に処されます。

大宰府で身の潔白を祈っていた道真ですが、結局中央には戻れず、2年後に大宰府でその生涯を終えます。 幼い頃から神童とされエリート街道をまい進して右大臣まで上り詰めた道真の生涯は、政治的敗北によって左遷され、その先で幕を閉じたのです。

政治的勝利を収めた醍醐天皇と藤原氏一派ですが、彼らを不幸が襲います。

妖怪と化した道真

道真の死後、朝廷は様々な不幸に襲われます。 道真を追いやった藤原時平の病死を皮切りに藤原一派に不幸が重なり、また醍醐天皇の後任となるはずだった皇子、皇太子も相次いで病死します。更に朝廷に雷が落ち、道真の追放に携わった朝廷の役人たちが死傷、心労が重なった醍醐天皇もついに崩御してしまいます。

都にも立て続けに天災が襲い、人々はこれを道真の祟りとして恐れました。 怨念を鎮めるべく、道真には太政大臣の地位が与えられ、また火雷天神を祀っていた北野に北野天満宮を、道真の没地である安楽寺に安楽寺天満宮(※現在の太宰府天満宮)が建設されます。

当初人々は道真の霊に鎮まるよう祈り、その甲斐あってか天災は鎮まりました。 そして天満宮は時代を下るごとに、道真を慰撫するための場所から、学問の神・道真にあやかる場所としての性質を強めていき、今では受験生が合格祈願する場となったのです。

今の価値観で考えるとおかしな話ばかりですが、受験シーズンになると大盛況となります。 多くは大学受験の祈願なので、道真の話を知った上で祈っている人が多い・・・んですかね?

私が受験生の頃は道真の話は知っていましたが、北野・大宰府天満宮が合格祈願で盛んなことは知りませんでした。 受験前に親が北野天満宮でお守りを買ってきた際、「ええ、道真が祀られてるところのお守り!?」と釈然としない思いを抱いたことを覚えています。

道真が今の状況を見たら何を思うのか、少し気になります。

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