「コケの一念、岩をも通す」で岩を通したのは苔でなく虚仮

moss

「コケの一念岩をも通すという言葉がある。苔のような小さな存在でも一途に続ければ、やがては岩の内側に茂って固い石を割ことだってあるんだぞ。」 こんな類の話をどこかで聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

しかしこの「コケ」、実は「苔」ではなく「虚仮」です。 おおよその意味は間違っていませんが、苔を例に出すのは間違いなのです。

「コケの一念岩をも通す」のコケは苔ではなく虚仮

Falsehood

「虚仮の一念、岩をも通す」とは、何事も一途に頑張ればやがては成就・大成するという意味のことわざです。

「虚仮」とは思慮が浅いこと・絵空事の意味で、ここでは愚かな人・未熟な人のことを指しています。 「一念」は一途に・信念を持って取り組むこと、「岩をも通す」は矢で石を貫いた故事を元にした難事を成就させる例えです。

しかしこの「虚仮」はよく「苔」と勘違いされます。 これは元の慣用句がピンとこないことと、苔と岩の組み合わせがピンと来ることが原因のように思えます。

まず我々が日常で「虚仮」という言葉を使うことはほとんどありません。 「虚仮にする」は使わなくもないですが、この意味を正確に捉えられる人はそう多くはありません。

次に「岩を通す」は故事「石に立つ矢」が元になっています。 この話をかいつまんで説明しますと「中国・漢の将軍・李広が虎を見つけて矢を射たがよくよく見るとそれは虎ではなく岩で、矢は見事に岩に立っていた。」という話で、転じて「必死に頑張れば難事を成し遂げることができる」という意味の慣用句です。しかし岩を通すと言われて「ああ李広伝の話か」とは普通なりません。 つまり「虚仮の一念、岩をも通す」は、我々が普段使わないようなワードを散りばめた慣用句なのです。

対して「苔の一念、岩をも通す」を考えるとシンプルです。 岩と苔は日常的によく見る組み合わせであることからも、我々の感覚に即しています。 「苔が一途に頑張った結果、岩を通すほどにビッシリ生えた」と言われたらピンと来ます。

つまり「虚仮の一念」よりも「苔の一念」の方が、物の例えとして分かりやすいのです。 そして分かりやすい方が広がるのは自明の理です。

そんな事情で「苔の一念、岩をも通す」が広がってしまったのではないでしょうか。 これは間違いではあるんですが・・・正直こっちの方が分かりやすくていいですよね。

ピンとこないことわざ・慣用句

Doubt

ことわざや慣用句は物事を的確に短く例えたものです。 例えば「頑張って長く続ければ成功するんだよ」は「石の上にも三年だよ」とほぼ同じ意味で、ことわざを使った方が短く的確に意思を伝えることができます。石だけに

しかしここでピンと来ないことを言われても伝わりません。 例えばドイツでは「石の上にも三年」を「ソーセージを投げてベーコンを得る」と言います。 しかし日本で「ソーセージを投げてベーコンを得るだよ」と言っても何言ってんだこいつとしか思われません。 そんな分かりにくい表現を使うぐらいであれば、素直に意思をそのまま口にした方がマシです。

ピンと来るかどうかは時代・文化・国民性などに左右されるため、特に海外のことわざにはピンと来ないものも多いです。 また昔は使われていたものでも、時代が変わってピンと来なくなるものもあります。

例えば秋はすぐに日が暮れることを「秋の日はつるべ落とし」と言います。 この「つるべ」は、井戸を使っていた時代は大変身近な存在であったため「つるべ落とし」というワードもピンと来るものだったのでしょう。 しかし今日では大人ですらつるべを目にする機会はなく、「つるべ落とし」と言われても「自由落下でしょ?」程度の認識しかありません。

なので言葉の意味こそ知ってはいますが、この言葉はまったくピンと来ません。 もしかすると水を組み上げるという嫌な作業の前段階だから心理的に早く落ちるように感じるとかあるのかもしれませんが、その辺の情緒はまったく分からない訳です。

馬鹿正直に学校で教えるから今日にも色々なことわざや慣用句が残っていますが、残っているというより残してしまっている感が強いです。 その辺の歪みから生まれたのが「苔の一念、岩をも通す」なのではないのかと思う、今日この頃です。

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